開催日 平成27年9月5日(土) | 開場 17:30 |
会場 渋谷区千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00終了予定21:00 |
※第一土曜日です。 |
※ 夜時間の開催です。 [note color=”ffdead”]短歌番号491 「汽車に入りてやすらふぬかのまのあたり白く泡だつまひるのながれ」からになります。担当は宮沢俊司さんです。 [/note]
開催日 平成27年9月5日(土) | 開場 17:30 |
会場 渋谷区千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00終了予定21:00 |
※第一土曜日です。 |
※ 夜時間の開催です。 [note color=”ffdead”]短歌番号491 「汽車に入りてやすらふぬかのまのあたり白く泡だつまひるのながれ」からになります。担当は宮沢俊司さんです。 [/note]
開催日 平成27年8月1日(土) | 開場 17:30 |
会場 千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00 終了予定21:00 |
会場整理費 500円 |
※ 夜時間の開催です。
[box title=”発表者と演題” color=”#a9a9a9″](前半) 杉浦 静(すぎうらしずか)氏
「青木大学士の野宿」の草稿はいつ転用 されたか?
2015年の6月例会では、入沢康夫さんが「セロ弾きのゴーシュ」原稿解読の思い出」と題して、校本宮沢賢治全集編集の際の、ゴーシュの原稿解読のなかでの発見や驚きを、実際の草稿を示しながら語って下さいました。大変楽しく、驚きを共にしながら聞いていたのですが、最後の所で、入沢さんは、「セロ弾きのゴーシュ」の草稿のなかには、「銀河鉄道の夜」や「風〔の〕又三郎」の場合と同じように「青木大学士の野宿」の裏が転用されているものがあるとして、コピーを示されました。見ると、それらは鉛筆で書かれ、ブルーブラックインクで手入れされているようでした。新校本全集を持って行っていたので、校異篇十一巻を見たら、確かに「銀河鉄道の夜」にも「風〔の〕又三郎」にも転用されており、それらは、第一形態がともに〈黒インク〉で記入されているとも書かれていました。校異を見ると、裏返しに置かれていた「青木大学士の野宿」の反故原稿を、「風〔の〕又三郎」「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜」の順番で転用していったらしいのですが、どうして最初と最後は黒インクなのに、中間の「セロ弾きのゴーシュ」は鉛筆で書かれたのでしょうか。賢治は、時期ごとに大体同じ筆記具を使っています。こんな不規則なことがなぜ起きているのでしょうか。これが宿題として残された問題です。ここから拡げて考えてみたいと思います。
(大妻女子大学教授)
(後半) 桐谷 征一(きりやせいいち)氏
日蓮聖人の大曼荼羅と宮沢賢治
宮沢賢治において、法華経および日蓮聖人(鎌倉時代、1222-1282)に対する信仰の存在は周知のこととして、もう一歩、その心奥にある〝秘められた世界”に踏み込んでみたい。
「雨ニモマケズ」詩の後ろに付されたマンダラを含め、「雨ニモマケズ手帳」には賢治の書いた五点のマンダラが残されている。それは、いわゆる日蓮の大曼荼羅の簡略形に相当するものであるが、日蓮みずからが従来の伝統的なマンダラを超越し革新的な意義をもたせて創作したものであった。とくに日蓮はそれを本尊と定め門下、信徒に普及せしめたが、しかし、その本尊たる真の意義に気づく人は歴史的にも稀有である。
しかし、賢治の残したマンダラを仔細に点検するとき、彼の大曼荼羅研究すなわち換言すれば彼の法華信仰の内容は、いわゆる一般に取り上げられる単純なあるいは表層的な法華信仰とは片付けられないレベルに達していたことが諒承されるだろう。私は日蓮が大曼荼羅に託して発信した祈りを、賢治は実に、650年の時空を隔てて正しく受信した歴史的な存在だったと考えている。
賢治の文学および人生には、難解な言語表現や謎にみちた奇矯とも感じられる行動が少なくない。一面でそれが彼の大きな魅力ともいえるが、賢治の「マンダラ世界」へのアプローチは隠された多くの謎を解明するてがかりとなり、賢治の魅力をより大きく深く広げるのではないか。
(1940年、石川県金沢市生まれ。立正大学大学院文学研究科博士課程中退。日蓮宗本納寺前住職、元立正大学大学院非常勤講師、文学博士。)[/box]
開催日 平成27年7月4日(土) | 開場 17:30 |
会場 渋谷区神宮前穏田区民会館 | 開会 18:00終了予定21:00 |
※第一土曜日です。 |
※ 夜時間の開催です。 [note color=”ffdead”]短歌番号470 「会はてぬラツパ剥げたる蓄音機さびしみつまた丘をおもへり」からになります。担当は村上さんです。 [/note]
開催日 平成27年6月6日(土) | 開場 17:30 |
会場 千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00 終了予定21:00 |
会場整理費 500円 |
※ 夜時間の開催です。
[box title=”発表者と演題” color=”#a9a9a9″](前半) 中路 正恒(なかじまさつね)氏
宮沢賢治のポトラッチ—「祭の晩」から考える
宮沢賢治には贈与について思索が豊かに展開されているように見える。それは一方では献身への意志の問題として(「銀河鉄道の夜」他)、また他方では明確に誰の意志とも言い難く、また贈与として表わされているとも言い難い贈与の問題として表わされている(「虔十公園林」)。だがそのような贈与をめぐるさまざまな問題の中の目立たない位置に作品「祭の晩」があるように思う。そこには相手を喜ばせたいという純粋な意志が高まり、ある種の熱狂にいたるさまが描かれている。主人公亮二は「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ」と考えるのである。この贈与は途方もない。ここには相手を喜ばせたいという意志の純粋性が特筆されるが、また同時に競争的、競覇的な性格も見落とし難い。山男からの過剰な贈与・返礼に含まれる気前の良さに対する関係である。ここにわれわれはマルセル・モースが『贈与論』の中で描くポトラッチの本質的なものを見出す。モースはそれを「競覇型の全体的給付」(prestations totales de type agonistique)として規定するが、全体的給付とは「そのすべてを賭して契約する、つまりその所有するすべての物、そのなす一切のものを賭して契約する」(..le clan qui conracte pour tous, pour tout ce qu’il possède et pour tout ce qu’il fait)ことを意味している。われわれは「祭の晩」の亮二の思考のうちにポトラッチ的な贈与の本質を見出すことができるのではないだろうか。そしてまた、そのポトラッチ的な贈与の熱狂を鎮めるための思索を、賢治の作品の中に探りたい。
(京都造形芸術大学名誉教授、宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事)
(後半) 入沢 康夫(いりさわやすお)氏
「セロ弾きのゴーシュ」原稿解読の思い出
校本宮澤賢治全集の編集のために、私と天沢退二郎さんとが、賢治の書き残した全ての詩稿と童話稿に直接当って、賢治の作品の持つ特質の数々に、目を瞠ったのは、1971~75年頃のことですから、もう40年以上の昔になってしまいました。しかし、あの時原稿を見て判明した沢山の新事実から受けた新鮮な驚きは、今も生々しく心に甦ってきます。今回は、その驚きのいくつかを、「セロ弾きのゴーシュ」に話をしぼって、御一緒に再体験してみたいのです。
(詩人、校本・新校本全集編纂担当者)[/box]
開催日 平成27年5月9日(土) | 開場 17:30 |
会場 渋谷区千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00終了予定21:00 |
※連休を避け、第二土曜日です。 |
※ 夜時間の開催です。 [note color=”ffdead”]短歌番号458 「雪くらくそらとけじめもあらざれば山のはの木々は宙にうかべり」からになります。担当は大竹さんです。 [/note]