開催日 平成29年2月4日(土) | 開場 13:00 |
会場 千駄ヶ谷区民会館 | 開会 13:30 終了予定16:30 |
会場整理費 500円 |
※ 午後時間の開催です。
[box title=”発表者と演題” color=”#a9a9a9″](前半) 信時 哲郎(のぶときてつろう)氏
「五十篇」と「一百篇」 ――近さと遠さと――
文語詩稿「五十篇」と「一百篇」をミクロな視点とマクロな視点を往還しながら眺めてみると、両者には奇妙な近さがあり、また、連続して作ったとは思えないような遠さもあると感じるようになった。
「近さ」から言えば、「五十篇」と「一百篇」にわたって「対」とも呼ぶべきペア作品の存在があること。「〔秘事念仏の大師匠〕」や「車中」については、タイトルが同じで(ただし前者は仮題)、それぞれに「〔一〕」「〔二〕」が付けられていることから容易に確認できようが、この他にも「対」は何組か存在している。
「遠さ」と言えば、「一百篇」には西洋人やキリスト教徒も登場し、カタカナ詩や歌詞も含まれ、「一百篇」にしか登場しない語句やテーマもあり、しかも全篇に満遍なく広がっている。
定稿が収められていたケースには、「五十篇」には「昭和八年八月十五日」、「一百篇」には「昭和八年八月廿二日」と書かれていたというが、わずか七日間でこうした変化が起こるものだろうか。
二つの定稿については、既に栗原敦や島田隆輔が言及しているが、両者の意見を受けながら、また違った点から「五十篇」と「一百篇」について考えてみることにしたい。。
(会員。甲南女子大学文学部教授)
(後半) 今野 寿美(こんのすみ)氏
賢治短歌 いかに残すか
読みにくく、評価がむずかしいことで知られる賢治の短歌について、生誕120年を過ぎたいま、いっそう切実に思うのは、賢治短歌をどのように残すか、ということです。当然ながら玉石混淆の歌稿から、これこそという作品を引き出し、確かな読みと鑑賞を添えて残す以外ないのではないか。そんな思いに基づいてお話しします。
(歌人)[/box]