開催日 平成27年6月6日(土) | 開場 17:30 |
会場 千駄ヶ谷区民会館 | 開会 18:00 終了予定21:00 |
会場整理費 500円 |
※ 夜時間の開催です。
[box title=”発表者と演題” color=”#a9a9a9″](前半) 中路 正恒(なかじまさつね)氏
宮沢賢治のポトラッチ—「祭の晩」から考える
宮沢賢治には贈与について思索が豊かに展開されているように見える。それは一方では献身への意志の問題として(「銀河鉄道の夜」他)、また他方では明確に誰の意志とも言い難く、また贈与として表わされているとも言い難い贈与の問題として表わされている(「虔十公園林」)。だがそのような贈与をめぐるさまざまな問題の中の目立たない位置に作品「祭の晩」があるように思う。そこには相手を喜ばせたいという純粋な意志が高まり、ある種の熱狂にいたるさまが描かれている。主人公亮二は「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといゝものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いゝものをやりたいなあ」と考えるのである。この贈与は途方もない。ここには相手を喜ばせたいという意志の純粋性が特筆されるが、また同時に競争的、競覇的な性格も見落とし難い。山男からの過剰な贈与・返礼に含まれる気前の良さに対する関係である。ここにわれわれはマルセル・モースが『贈与論』の中で描くポトラッチの本質的なものを見出す。モースはそれを「競覇型の全体的給付」(prestations totales de type agonistique)として規定するが、全体的給付とは「そのすべてを賭して契約する、つまりその所有するすべての物、そのなす一切のものを賭して契約する」(..le clan qui conracte pour tous, pour tout ce qu’il possède et pour tout ce qu’il fait)ことを意味している。われわれは「祭の晩」の亮二の思考のうちにポトラッチ的な贈与の本質を見出すことができるのではないだろうか。そしてまた、そのポトラッチ的な贈与の熱狂を鎮めるための思索を、賢治の作品の中に探りたい。
(京都造形芸術大学名誉教授、宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事)
(後半) 入沢 康夫(いりさわやすお)氏
「セロ弾きのゴーシュ」原稿解読の思い出
校本宮澤賢治全集の編集のために、私と天沢退二郎さんとが、賢治の書き残した全ての詩稿と童話稿に直接当って、賢治の作品の持つ特質の数々に、目を瞠ったのは、1971~75年頃のことですから、もう40年以上の昔になってしまいました。しかし、あの時原稿を見て判明した沢山の新事実から受けた新鮮な驚きは、今も生々しく心に甦ってきます。今回は、その驚きのいくつかを、「セロ弾きのゴーシュ」に話をしぼって、御一緒に再体験してみたいのです。
(詩人、校本・新校本全集編纂担当者)[/box]